7/12/2011

『谷間の百合』書評前編〜芸術性について〜

今自主勉強の一環でバルザックの『谷間の百合』を読んでいる。だんだんクライマックスに近づいている状態です。


それで、私のなかでは、とても異様なことが主人公の認識方法に起こっている。


主人公のフェリックス君は、自分を「詩性が分かる人」みたいに言っちゃっってるのよね…。「美しさ」とは別の「詩的」とかそういう表現を用いて、それを分からぬ他者の批判に使われることが多いことに驚く。実際フェリックス君はそうなのかもしれないけど、それを言っちゃあおしまいよ、って感じもしないでもない。


いやはや、こういう感覚が生まれたのがロマン主義時代なのかな。芸術性が一つの他者と差別化を図る標になっているというか。制度としての階級がなくなった仏革命以降(王政復古とか色々繰り返してたから一概には言えないけど)、意識下にそれが移行してる。革命以前の作品と対比しなくてはならないな。


しかし、私論として述べるならば、「芸術性」ってのは作り手が押し付けるものではなく、感じた人によって生まれるものだと思うのね。「芸術的」なものを目指して作られた「芸術」は、スタイルから入る、虚栄心に満ちた自分よがりの浅いコンセプト。


今や、皆が皆、自分の感覚を大事にしてるから、「芸術性」は千差万別。だから何かしらの表現に感動したことがある人は、皆が自分なりの芸術観を持っている。このように芸術性は今や個人的な認識に委ねられているから、その様相は多様過ぎて、一つに定義できないはずである。


そこを自分で「アーティスティック」と言ってしまうと、定義しきれない芸術に対して狭義的過ぎるし少しおこがましい。




私のなかの「アーティステック」な人は、色眼鏡なくモノを感じられる感性の持ち主。「芸術色眼鏡」というフィルターなくして生活出来る人。芸術ってのは、仰々しいものではなく、日常に溢れているような気がしてならない、私の私的で狭義な芸術性についての認識に基づいていることには変わりないがね、皮肉にも…


結局「人それぞれ」と言ってしまうと、全ては人それぞれ違うから、一個人の意見が普遍性を獲ることは決してなさそうだけど、それを論理性でカバーしていくのが論文や対話、会話、意見交換を成り立たせている一つの支えなんだろうけどね…きっと…。


しかし「論理」というと、大学で苦しんだ論理学のレポートを思い出す。論理学は結構すごくて、全ての文章を記号化してその整合性を見極める方法があった。アカデミックな世界って、本当に論理学の基礎に成り立っているのだな、と、かなり苦しんだけど論理学に感謝。このおかげでブレないでいられる。卒業したことで、少し強い感覚を持てるようになったのかな〜。このおかげで、言葉をちゃんと使う人としか話が噛み合なくなったのは事実だけど…ネ。


ま、そこらへんはご愛嬌で


かしこ

広島旅行の写真〜市内、宮島編〜

広島市内を流れるいくつもの川には
たくさんの失われた命が流れていることを
思い出さずにはいられないのだな…


絶品を生み出す華麗なる技!


絶品あなご弁当!1500円


カメラの前で止まってくれてると思ったら、
おしっこをしているだけだった…


梅の実の種を、中身が出るまでバキバキ食べていた鹿たち




偶然当日結婚式が行われていて、能が舞われていた
















菩薩様に後光が差していた…!



緑が美しかった









7/10/2011

ベクレルって何?

久しくベクレルって何かよく分からなかったけど、ベクレルってのは実質放射線量で、シーベルトが身体への影響を表す数値らしいことを今頃思い立って調べてやっと理解した。

そして、ベクレルをシーベルトに変換できるサイトを発見☆

http://testpage.jp/m/tool/bq_sv.php?guid=ON

また大きい地震が今朝あったようだし、福島の原発の問題は関東圏の私たちには目の上のたんこぶだな…。夏だし思いっきり弾けたいのになー。グスン…

夏女な私。「私たちの夏を返せ!」と今、誰に恨み言を言っていいのかさえ分からないけど、私は夏を目一杯楽しむ予定である。楽しむ気力もまだまだある。

原発の現状がまだ未知数であれ、色々課題が山積みであれ、何がともあれ、夏は涼しい風が吹くだけで幸せを感じられる特別な季節であることは変わりがないな。私にとっても、きっと皆にとっても。

かしこ

7/02/2011

今日のノア

朝6時からわざわざ私のベッドで
トイレットペーパーを細かくちぎって
暴れたあと一息するするノア…
朝からバトル(笑)

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