3/31/2012

出雲・松江紀行(写真のみ)

祖父母のいる松江に行ってきました。水の都松江、清く美しい街でした。人も皆親切でナビだが出るほど優しかった。船舶の免許を取って、また夏にコバルトブルーの海に泳ぎに戻ります☆


出雲大社にて




 松江市内
松江大橋のふもとにて、奥に宍道大橋
懐石料理なにわ本店にて

 一色庵(本店)にて
 松江城外観
松江城天守閣から宍道湖を望む
松江城を囲む堀川
風流堂茶屋にて (塩見縄手)

 武家屋敷中庭
 小泉八雲旧居の中庭
 片目の不自由だった八雲がオーダーメイドで作らせた机(レプリカ)
祖父の生まれ故郷の漁村、夏に泳ぎに戻ります





 松江市内にて

大叔母の売る魚



 京町にて

 八雲庵、かきあげ割子蕎麦

 八雲庵中庭
 堀川巡り




 松江市内を流れる大橋川に沿って
小泉八雲の後ろ姿とともに








微力どころか無力?!

311から1年経ってもうそろそろ今年度が終わろうとしている。

皆同じような気持ちだろうと想像するが、こんなにも自分たちが歴史の一部であることを実感しながら、こんなにも自分たちの非力さを痛感した経験は私たちの世代、少なくとも私にとっては初めての体験だと感じたこの1年。

皆政府の言っていることがうさん臭いことも百も承知、原発が好きな人はそれで懐肥やしてる一部の人だけで、誰だってあんな危険なもの好き好まない。原発が増えれば増えるほど確率の問題で危険はますます増える。

皆思いは一緒なのに、動かない現実。どうしたらしたらいいの〜?!

私は密かに311の日比谷のデモにも参加した。左翼でもないし過激派でもない、今ある問題は個別に対処するにしても、これ以上原発増やして欲しくないという思いで参加した。

デモしても効果があるのか分からない。

このもどかしさは、結果主義者的な私は気が結果を直ぐ求め過ぎるのかもしれない。

しかし、私の見た限り、日本人ジャーナリストが驚く程少なく、まだ外国人ジャーナリストの数がまだまだ多かった印象を受けた。

国内の組織に所属しているとこうも身動きが取れなくなるのか、というのを同時に痛感した。ジャーナリズムに携わっていながらも…

しかし、守る家族や生活がある人は日本の組織が陰険に圧力をかけてくることを恐れるのも仕方ない。だから「皆がデモをすべき!」とは思わない。

安保理闘争とか学生運動の話を私たちの親の世代の話や様々な媒体を通じて少しは知っていると、日本は恐ろしい国だと私も思ってる。

私たち一人一人は本当に非力。でもなるべくいい世界を望んでる。だからと言って政治家になる訳でもない。だけど国は政治家のものじゃない。押し付けられた憲法だけど、日本は一応民主主義国。つまりは世論で政治は動く。では私は今何が出来る?なるべく多くの人でスイミーのように大きくなってデモをすることくらいしか私は思いつかなかった。

しかしながら、デモに関しては当日TVではさらりと触れられていたが、うちの取っている読売新聞の翌日の朝刊では、鎮魂の数ページ後に「夏の電気 不足も」、と経済欄トップで原発稼働を煽動するような意図が見え見えな寸法を取っていた。幻滅。社説には記者が「歴史の一部を記す役割を少しでも果たしたい」というようなことが書いあったが、自由に書けずに苦虫を噛んでいるのか、もうジャーナリズム魂が消えてしまった後の軽いキレイ事なのかは私は知る由もない。

しかし、脱原発は世界的な潮流である。必死なのは私たちではなく、メディア統制で悪あがきをしている既得権益側なのかもしれない。数十年後には高齢者でも殆どインターネットが使える世代になる。しかしもしかしたらインターネット統制も始まるのかな、隣の大国のように?!

その一方で、年末、日本は既存の京都議定書からはアメリカや中国が不参加だと理由付けして不参加を表明した。今日本は多くの原発の稼働を見合わせているため火力発電をフル稼働させているせいだと私は読んでいるけど、これもこれで残念である。結構京都議定書に関しては日本人として誇らしく思っていたし。

もどかしい。

温暖化問題のように、「死ぬほど暑い」とか「国が水没する」とか「皮膚がんになる」とか自分たちの生活に支障が出てこないと国々は手を取らないのかな。第一次・二次世界大戦で身近な人をたくさん失って、血みどろの悲劇を目の当たりにしてやっと各国は講和を結なんで戦争にならないようなスタンスをとるようになったけど、原発でもっと悲劇が生まれないと世界は動かないのかな?

歴史を静観するとこんな最悪な構図しか見えてこない。
私は怖がりだからか要領よく事を進めたいからか、最悪の状況を想定してリスクマネージに備えているつもりでそちらばかり見つめて悲観して勝手に疲れちゃってだけかもしれない。

だけど「何をしても変わらない」と思うのも何か嫌。私なんかは無力に限りなく近い微々力だけど、やはり希望はとても遠くだけど取っておきたいのだよ。

瓦礫問題といいい、私の居住地の一番近くにある稼働してないにしても燃料棒がまだたくさんある浜岡原発といい、祖父母やその兄弟たちの住む松江にある島根原発といい(津波よりも北朝鮮がそこを爆撃してこないか皆心配してた)、なんかモヤモヤした気分が続く。

一方、福島の人には私たちが恐れていることがもう実際に起きたのだけど、想像を絶し過ぎてて本当の意味でのリアリティをあまり感じられていない自分もいる。自分の想像力にも限界を感じたし。思いやりは想像に依拠しているけど、やはり想像には違いなくて、代わりにその人の人生を生てあげることは出来ないし。だから、口先だけで分かったようなことも言いたくないけど、やっぱ少しでも悲しむ人が少ない世界になるようにという希望を心のどこかに忘れずに持ち続けて置きたい。
特に私はまだまだ自分のことで精一杯だから心掛けないと。皆精一杯一生懸命生きてるのは一緒だしね。


かしこ













3/20/2012

激しく生きる〜『老人と海』を読んで

しばらくTOEICの勉強のためお預けしておいた『老人と海』、昨晩、食後に寝入ってしまったので眠れなかったので読書を再開した。

前に投稿にも書いたように変な神経を使ったせいか、単なる流行風邪か、胃腸を1週間やられて吐き気と胃痛で寝込んでいたときに、あまりに長引く寒さにも敵意を抱き、海と太陽のキューバが舞台の『老人と海』を手に取った。

まだ読んでない人のために内容には触れないが、読後感として思ったこと…




人生は結果ではない…

相殺して老人に残ったものは結果的に殆どゼロ。だけど「老人」はあの瞬間を激しく生きた。そしてその瞬間に勝った。

通りすがりの人は老人がどんな偉業を成し遂げ、死闘を生き抜いたかなど知る由もない。
しかし、それがどうした?

老人は偉業を成し遂げ、死闘を生き抜いたことは村人や少年、そして私たちの心に残る。

人生の豪快な空しさ…

そんなただ中にいる老人を愛する少年。見ている人はちゃんと見ていてくれる。

老人は言う、「『俺には運がない、運が尽きた』」と。そして少年は言う、「僕が運を持っていってあげるよ」(ここで私は号泣ToT)

ただ自分のやるべきことに激しく立ち向かえばいい。
それが生きること。「生」を燃やせば「命」は爽快に燃える。
そして命は限りなく輝く。


そんなことを思った。


しかし、ヘミングウェイは『日はまた昇る』も読んだことあるけど、生の「激しさ」「野蛮さ」「厳しさ」を追い求めているな〜。そういうの大好き。

スペインのエキゾチスムを卒論で扱ったから『日はまた昇る』も読んだ訳だけど、原始的なものに惹かれるのは私が現代人だから、っていうのもあるのだろうな。ホンジュラスに住んで、自分は現代人っていうのを実感したけど、原始的で本能的な記憶をどこかで確かめたいのかもしれない。

こういう原始懐古趣味ともいうのは現代の特徴だろう。文学でも、音楽でも、絵画でも、旅行でも、趣味でも、やはり人間は動物的感覚に飢えてどこかでそれを補充しなきゃいけストレスが溜まるのかな。

もちろん人間の進化の過程を見れば、完全に動物的になればいい訳もない。道具を使い、絵を書き、祭りをし(音楽、演劇)、言葉を使い、文字を使って来たのも人間の一部だけど。人間も進化の過程だから、何が一番いい形なのか答えはない。だから原発のような過度の科学技術に依存した社会も出来てしまって、今更皆後悔してる。後悔しても後戻りできないのが放射性物質の厄介なところ…。

やはり結局原発の話に戻ってしまったけど(苦笑)

ではでは

3/06/2012

母のことば

最近、あることの間に挟まれて、大変な思いをした。

一方の人は自分の気持ちばかりで、自分が相手に疎まれていることにも気付かない。
もう一方の人はどうにか波風立たせずに身を処しているため、今度は中立な立場にいる私が矢面に立たされることとなった。(そう言えば前も間に挟まれて嫌な思いした事があるな…何でだろう)

そして一週間もの間、適当な理由ではぐらかしていたものの、とうとうもう逃げられなくなった。

相手は自己顕示欲に満ちた強敵。あの手この手で自分の思いを遂げようとする。

しかし、双方のことや今後の事を考えると穏便に済まさなければならない。
下手すると、守りたい人にまで不利益を被らせてしまい兼ねない。
しかし連日の攻撃に、ストレスはピークに。ほぼノイローゼ。

「えい!もう全てをつまびらかにしてしてやる!」

なんて思い切ろうとした時、母は言った。

「キレたら自分が損するよ。相手が悪くてもマチコがキレると『マチコは病気で家て悶々としてるから』とか『外でちゃんと働いてないから世間知らずでワガママだから』とか思われて、そういうのママは悔しい。」と。



ド・ストライク。


然り。


母は偉大なり。母の愛情…


ということで、少し頭の熱が冷め、結局その後、穏便に対応出来た。

なんだ、私、やればできるじゃ〜ん。


結局、押しの強い相手を上手くかわせなくて面食らっちゃうのが自分の問題だったのかな、と思う。だんだん小さなことが積み重なって耐えきれなくなり爆発してしまったり。
正当防衛ではあるかもしれないけど、自分の印象が悪くなってしまうし、過剰防衛をしてしまったら自分も罪人。

それで「上手な断り方」とネットで調べてみたら↓のようなサイトが出て来た。

これは「苦手な人と人間関係を上手に築く方法」だって
http://kiirowa.biz/pawahara/contents.html

これは「傷つけない・人間関係をよくする会話術」だって
http://kiirowa.com/hurt/contents.html

そういえば、嫌なこと言われた記憶を辿ると、大体↑のパターンに当てはまるな〜。

よくある「一般的には」「普通は」「日本では」「西洋では」「常識では」「この分野では」とか持ち出すと、図らずも権威を後ろ盾にして相手の意見を封じ込める策を講じてしまっている図式になるらしい。

もっと嫌な言い方だと「社会人として」「大人なんだから」「病気だから」「育った環境が違うから」云々を普通に言ってしまう人も結構いる。悪意はなく、話術がないだけなのに、印象は最悪で人格を疑われなかねない。

私もこれからもっと社会参加していくつもりだから気を付けないといけない。

特に日本は礼節に厳しいので気を抜くと痛い目に会う。大学でも通信だったから色んな年代層の人、色んな分野で活躍してきた人がいたので、結構大変なこともあった。皆、自分の経験から自分なりの常識を持っていて、思わぬところに地雷が埋まっていたり。私は一緒に勉強している同等な学友のつもりでも、それを良しとしない人もいた。たくさん素敵な友達も出来たけど。

「なんでxxxしたの?!」と聞かれたので理由を言ったら「言い訳ばかり」とキレられたり…(ちょっとこれは引っかけ問題だと思うんだけど…汗)。まるで会社…こんなことが日常茶飯事になるかな?

そういう話をすると友達は皆、私を擁護してくるので、極端な例だったのかもしれないけど、もう、あまりこういうことに巻き込まれたくない。 


これが「上手な謝り方」だって
http://kiirowa.biz/phrase/phrase2/phrase2-00100.html

でも、日常でも軽く一言「ごめん」とか言ってくれたら大事にならなくて済んだのにな、ということもあるので、極端に「謝罪しろ!」とは思わないにしても、時には有効なのだろう。

社会参加の準備としてマナー教室通おうかとも思う今日この頃です(笑)

3/01/2012

懲罰について〜NHK特番『ヒューマン』を見て

前に偶然見たNHKの人間科学番組『ヒューマン〜どうして人間になれたのか』

http://www.nhk.or.jp/special/onair/human.html

で興味深いことを言っていた。

人間は過酷な環境で生きて抜くために、様々な地域の物産を交換(つまりは交易)するようになった。しかし、様々な人が同じ場所に集まるとどうしても問題が起きる。なかにはズルをしたり暴力を振るったりする人もいる。そして、交易の場の跡地には武器による監視が行われていた形跡が残っていることから、人間は、このような経緯で一定のルールを破った者に懲罰を与えるようになったと。

もう一つの驚いたのは、ある女性が男性をひっぱたく映像を見せると、男性に同情する脳の部分の運動が活発になった。しかし、「この男性は浮気をした」(もしくは「日常的に女性に暴力を振るっている」だったっけか。記憶が飛んだ…)と告げてからその映像を見せると、なんと「快楽」を司る脳の部分が活発化したという。

単独では生きてゆけない故様々な知恵を共有するようになり、人間特有の「公共」場や対人関係では常に善悪の判断が迫られている。

そんなある意味人間的とも言える懲罰の意識が快楽とは驚いた…!

ある罪人に「死刑は当然」と考えたり、ある法的処置を「妥当」と思ったり。
人は悪事の対価としての懲罰を求めるように出来ているようだ。

しかし懲罰は法的なものだけではない。「道義」「価値基準」「信念」というのも、各々がそれぞれ持つ輪郭のない明文化されていない一つのルールである。
そして、誰かがその一線を超えると、責めたり、批難したり、面と向かって言えない場合は陰で悪口を言ったりする。これらも一種の懲罰である。

だが、個人のルール程推敲されていないものはない。誰もが憲法や法律のように冷静に自分の価値基準を公正に保とうとしている訳でもないし、法律が生まれた背景を考えれば当然なことだが、人間は自分に有利に事を運びたがるようだ。

そして、懲罰の意識が快楽の一種だとすると、その快楽に溺れる危険性がある。

快楽に走る場合というのは、例えば、食に走ったり、所謂「色」に走ったり、薬に走ったりと色々あるが、どれも過度のフラストレーションが掛かった時である。

だから、責めたり、批難したり悪口言ってしまっている場合、冷静になる必要がある。自分自身のフラストレーションのはけ口としてないか、取るに足らないことの揚げ足を取って理不尽な怒りに身を任せてないか…。

しかし、世の中には道理があり、また必要でもあるため、必要な苦言もある。

自分が快楽に溺れているのか、それとも必要な苦言なのか、その判断基準はとても難しい。でも、その人(もの)との関係性の改善が目的の場合(例えば、自分と近い関係にある人との間や、政治批判など自分たちの生活や公共の福祉に関わる問題)は、必要なものなのかな。その代わり、自分の身を正してからでないと墓穴を掘るし、相手との信頼関係が成り立っていない場合には、お門違いもいい話になってします汗。

だが、常にこうやって自問自答して謙虚にさえしていれば、少しはその快楽に溺れることはなくなるのかと。そして、自尊心を失わず謙虚でいることも際どい難しい課題であります。でも自分を妄信して過保護して、自分自身を裸の王様に祭り上げるよりはいいかな。



きっと、人生こういう自問自答の繰り返しなのだろう…




なんてねっ!




PS:卒論では闘牛や公開処刑とかの「残酷性」と「快楽」の関係を少し掘り下げたけど、「懲罰」と「快楽」とは盲点だったな〜!面白いテーマだ。







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