2/27/2012

『ブッダのことば』からの抜粋1

ツイッターでガンジーのbot(robotの略。ある著書からの抜粋がある一定の間隔を置いてアップされる機能。実際はそのアカウント主が書き込んで登録されたものが流れている)で流れてくる素敵な言葉に魅せられて、少し仏教に興味を持ち始め、入門書を読んだ後『ブッダのことば スッタニーパータ』(岩波書店、中村元訳、2011)を買った。

入門書によると、仏教には統一的に規定された教典があるわけでもないし、様々な宗派もあり、地域によって様々。どこから手を着けていいものかと結構悩ましい問題。宗教は各地の民俗や政治的状況に左右され易いので、原点に立ち戻り根本的な要素の概観を掴むべく、「ブッダ」までタイムスリップすることにした。日本や私も含めた日本人には、そこまで宗教的でないにも関わらずやっぱり仏教国らしい土地に染み込んだものがあるのかな〜?!という自身の素朴な疑問も興味を持った要因の一つでもある。

まだちょっと読み始めたばかりだが、少しストーリー仕立てになっている部分はプラトンの著作に少し似ている。プラトン作品のソクラテスのように、答えを言わず曖昧さのなかから疑問を投げかけ読者を思考へ導くという類いではない。ブッダは常にシンプルな回答をする。

参考までに今まで読んだ部分で気になったもの。



蛇の章、ダニヤ、三三〜三四(17頁)

悪魔パーピマンがいった、
「子のある者は子について喜び、牛のある者は牛について喜ぶ。
人間の執着するものは喜びである。執著するもののない人は、
実に喜ぶことがない。」
師〔ブッダ〕は答えた、
「子のある者は子について憂い、牛のある者は牛について憂う。
実に人間の憂いは執著するもとのものである。
執著するもののもとがない人は、憂うることがない。」





重みのある戦慄が走る。悲しみや憂いは、人と関わる以上逃れられないものなのだ…!なぜなら愛情も一つの執着だから。また、悲しみや怒りなどを覚える場合、これは相手の問題ではない。愛情や期待などの執着が自分にあることが原因。そして、色々な辛いことがあったとしてもこれは結局自分の選択した道。世俗との関係を完全に断ち切って瞑想の世界で修行に生きる道を選ばないのだから。と言っているのかな〜?!

更に、



蛇の章、犀(さい)の角、三七(18頁)では、

朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのれが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め




これも重みのある深い戦慄が走る。「ほだされる」とは「情に引きつけられて、心や行動の自由が縛られる」(大辞泉)という意味だそうだ。これは、人に情をかけるのであれば、自分の情は阻害される恐れがある。そしてこれも自分の選択なのだから、この不自由を受け入れたくなければ人に情をかけるな、という意味なのかな〜?!


ブッダの生きた太古の時代から人間って…(トミー・リー・ジョーンズのBOSSのCM風の憂いの効いた言い方です)
ってな訳で、今日はこの辺で。 


つづく…




2/13/2012

石巻から来た人たちの音楽を聞きに行った

昨日、近くであった「ちだ原人Nuts」のライブに行きました。

↓↓↓
http://ameblo.jp/chidadanuts/


http://www.myspace.com/chidadanuts

↑↑↑
その名の通りの原人。私が自転車でライブ会場のバーのエントランス前に到着した瞬間、素肌にダウンジャケットを羽織った、小柄ながも身体の引き締まった男がこちらへ向かって歩いてくる。コレが私が彼に「お初にお目にかかった」瞬間の彼の姿である。挨拶を軽く交わした後、やはり目に付くのはその髪の毛。一部大きく塊が出来ている。30年髪を切ってないナチュラル・ドレッドは初めて見た(サーフィンで海入った後そのまま塩で固まってきたらしい(笑))!!!

そして彼らは宮城県石巻市出身で(確か・・・)仙台を拠点に全国で活動している(酔っていたので記憶を欠いてるため正確さも比例して欠いているので間違えがあるかも!謝!)。

ライブはハッピーオーラ満開で、「原人」という音楽家名を裏切らない皆で大合唱始まる「原始的」な祭りのような一体感が一貫して続いた。バーのオーナーが石巻市にボランティアに行ったときにネットで調べ物をしていて偶然知って興味を持ち、自分の店で演奏して頂くに至ったという。持った興味に熱意が後押しをして、もの凄い「速さ」で実現するという、前へ進むのも大変だと感じる今日この頃の自分までもが励まされる裏話である。

そして、ライブの後、皆で酒を酌み交わすとやはり話題は東日本大震災へと移った。

曰く…

ちだ原人さんは津波に流された。しかし運よくもどこかに引っ掛かり流されずに、建物の上にいた人がロープを投げて助けられたという。助けられた後、流されてゆく人を何人も目で見送るしかなかったことがトラウマだという。運のいい自分が助かったのだから、メンバーの皆は死んでると思ったとも言う。メンバーの一人が地震の後彼に最初に会った時、「車が走ってる!!!」と叫んでいたらしい。津波に呑み込まれて世界が終ったと思っていた直後の車が走っている光景を信じられなったのだろう。

その他にも、震災当時、仙台市内にいたG氏は公園に逃げたのだが、余震が続くたびに周囲のビルがしなり、その動きから逃げるように公園内にいた人だかりが一気に移動する。同じく手編みドレッドの彼は避難所へ移動するときに、路上生活者と間違われ弾かれないようにMacのコンピューターを携えたと笑っていう。

このように、彼らの態度は到ってフランクだった。

その他にも、被災したことを一つの万能な手形かのごとくに捉えて横柄になる人とそうでない人、仙台から沿岸の実家の様子を見に帰ることを恐怖心のため躊躇する人や武勇伝にする人、刺激を求めて好奇心で来るボランティアやそうでない人…。

このように全てをひっくるめて一つ一つは確かな現実であり、正解も間違いもないある意味本能的で必然的な感情であるかのように彼らは平然にに様々なことを語ってくれた。

そして、私はずっと立場を決められずにいた問題を聞いてみた。「瓦礫の受け入れ」問題だ。

私は、

「放射能の全国への拡散を防ぐためにはその放射能数値が基準値以下の瓦礫でも受け入れるべきではない」という立場と、

「神奈川県民としてを福島第一原発で作られた電気にお世話になっていたという事実を踏まえて、東北地方の負担軽減と復興を少しでも手助けるべく、基準値以下の瓦礫ならば受け入れはやむを得ない」という立場で悩んでいた。

そこでこの私にとって難しい二択問題をそのまま彼らに聞いてみた。

すると答えは簡単だった。

「瓦礫はさら地に集めてあるため実質的な都市復興の邪魔にはなってないので、放射能拡散のリスクを優先的に考えるべき」だと言っていた。

「瓦礫はさら地にあるから復興の邪魔にはなっていない」なんて、現地の人にしか分からないことだったので聞いてよかった。

その分、ボランティアによる瓦礫の市街地からの撤去には本当に感謝していた。

「一見は百聞にしかず」

私もネットのニュースに出来る範囲で目を通してはいるものの、やはり現実の複雑さの理解には日本にいても分からないものだと思った。

そして私も自分の現実がある。現実が何層に重なっていて、どこまでが「自分の現実」なのか分からない複雑な感じ。

どれだけ一生懸命想像して考えて理解しようとしても、物理的空間と距離が平然と存在する。

そして、ネットのニュースでは聞いたこともないことを聞いた。

福島県に近い宮城県よりも岩手県の方が放射能の値が高いらしい。どうも仙台以北にある女川原発(宮城県)か六ヶ所がどこか怪しいというのではないかという疑惑を持っているようだ。

もしこれが本当だったらと、内心、かなり吃驚しています。
これ以上に隠されているのかと思うと、何も信じられない。

そして、福島第一原発の事故処理には日給1 万円程度で大阪などからの日雇い労働者が充てられていると。しかし、東電は国から一人につき日給5万円程の助成金が充てられているので、最悪のビジネスを展開している。そして事故処理労働者の過労死が頻繁に噂されている etc etc

もうここには書ききれないことをたくさん聞いた。


パソコンを開かなければ平穏な生活が送れる首都圏にいる私。
何も影響力のあることは出来ないが、文学を少し勉強し勉強している私が今出来ることが、「人間は考える葦である」という名言から、「考えない人間は植物と一緒である」と言い換え、自分もちゃんと怠けずに考え、出来ることは行動しようということ。そして、その行動の一環として、誰が最後まで読むかもわからないブログを一生懸命書いてみた次第である。

かしこ

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