3/01/2012

懲罰について〜NHK特番『ヒューマン』を見て

前に偶然見たNHKの人間科学番組『ヒューマン〜どうして人間になれたのか』

http://www.nhk.or.jp/special/onair/human.html

で興味深いことを言っていた。

人間は過酷な環境で生きて抜くために、様々な地域の物産を交換(つまりは交易)するようになった。しかし、様々な人が同じ場所に集まるとどうしても問題が起きる。なかにはズルをしたり暴力を振るったりする人もいる。そして、交易の場の跡地には武器による監視が行われていた形跡が残っていることから、人間は、このような経緯で一定のルールを破った者に懲罰を与えるようになったと。

もう一つの驚いたのは、ある女性が男性をひっぱたく映像を見せると、男性に同情する脳の部分の運動が活発になった。しかし、「この男性は浮気をした」(もしくは「日常的に女性に暴力を振るっている」だったっけか。記憶が飛んだ…)と告げてからその映像を見せると、なんと「快楽」を司る脳の部分が活発化したという。

単独では生きてゆけない故様々な知恵を共有するようになり、人間特有の「公共」場や対人関係では常に善悪の判断が迫られている。

そんなある意味人間的とも言える懲罰の意識が快楽とは驚いた…!

ある罪人に「死刑は当然」と考えたり、ある法的処置を「妥当」と思ったり。
人は悪事の対価としての懲罰を求めるように出来ているようだ。

しかし懲罰は法的なものだけではない。「道義」「価値基準」「信念」というのも、各々がそれぞれ持つ輪郭のない明文化されていない一つのルールである。
そして、誰かがその一線を超えると、責めたり、批難したり、面と向かって言えない場合は陰で悪口を言ったりする。これらも一種の懲罰である。

だが、個人のルール程推敲されていないものはない。誰もが憲法や法律のように冷静に自分の価値基準を公正に保とうとしている訳でもないし、法律が生まれた背景を考えれば当然なことだが、人間は自分に有利に事を運びたがるようだ。

そして、懲罰の意識が快楽の一種だとすると、その快楽に溺れる危険性がある。

快楽に走る場合というのは、例えば、食に走ったり、所謂「色」に走ったり、薬に走ったりと色々あるが、どれも過度のフラストレーションが掛かった時である。

だから、責めたり、批難したり悪口言ってしまっている場合、冷静になる必要がある。自分自身のフラストレーションのはけ口としてないか、取るに足らないことの揚げ足を取って理不尽な怒りに身を任せてないか…。

しかし、世の中には道理があり、また必要でもあるため、必要な苦言もある。

自分が快楽に溺れているのか、それとも必要な苦言なのか、その判断基準はとても難しい。でも、その人(もの)との関係性の改善が目的の場合(例えば、自分と近い関係にある人との間や、政治批判など自分たちの生活や公共の福祉に関わる問題)は、必要なものなのかな。その代わり、自分の身を正してからでないと墓穴を掘るし、相手との信頼関係が成り立っていない場合には、お門違いもいい話になってします汗。

だが、常にこうやって自問自答して謙虚にさえしていれば、少しはその快楽に溺れることはなくなるのかと。そして、自尊心を失わず謙虚でいることも際どい難しい課題であります。でも自分を妄信して過保護して、自分自身を裸の王様に祭り上げるよりはいいかな。



きっと、人生こういう自問自答の繰り返しなのだろう…




なんてねっ!




PS:卒論では闘牛や公開処刑とかの「残酷性」と「快楽」の関係を少し掘り下げたけど、「懲罰」と「快楽」とは盲点だったな〜!面白いテーマだ。







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